創業昭和29年以来、まじめな家づくりで地元福山の皆様に愛され60年。外断熱二重通気工法ソーラーサーキットの家、住み心地一番の住まいづくりを行っております。

社長プロフィール

社長のひと言

 

昭和29年、私の父(現会長)が神辺から養子で来て、個人営業始めた請負業が59年目を迎えています。

父が事業を始めた頃、新築でお世話になった方にお話しを伺う機会がありました。

建てようとした家の材木を買いに三川ダムのあたりまで行き、山にある木を一本一本買い、お金を払って帰ったのだそうです。いざ棟上げとなると近所の人が総出で手伝わないとできません。今のようにレッカー車の無かった時代です。                                   私が二代目で伺うと「かっちゃんが跡を取ってくれてうれしいわ」と手を握ってくださったのが思い出されます。

今は効率を求める時代になってしまいました。

こんな時代ですが、お客様が用意して下さったお金をたとえ一円でも無駄にしたくないと思っています。

すべてはお客様の幸せと健康のために!

ご縁いただいた方には私が持つ経験と知識のすべてを投げ出して取り組みたいと思っています。

当社主催の勉強会「寺子屋」や毎日の「ブログ」で発信しています。

ぜひ、勉強しましょう。

 

昭和34年2月8日    福山市大門町津之下に生まれる

兄弟は3つ年上の姉がいて、木之庄の大福酒店に嫁いでいます

 

右の写真は私の生家で、今は解体され当社の工場ができています。母は3人兄弟の末っ子で、上に姉と兄がいました。祖父(=母親の父 文市)が昭和29年に亡くなるのですが、その時すでに伯母(=母親の姉)は教員となって神辺に嫁いでおり、伯父(母親の兄 満)は昭和22年に病に倒れ、帰らぬ人となっていました。

祖父が亡くなると当時農業をしていた藤井家は一気に大黒柱を失い、高校に通っていた母は中退を余儀なくされたのです。これは近所のおばちゃんから聞いたのですが(笑)、母は勉強が良くできたそうで、そのおばちゃんの息子さんがクラスで一番良く勉強ができて、母は2番だったのだそうです。

貧乏ゆえに高校に行けなくなった母は普段農業をしていたそうです。農作業をしていたそばを楽しそうに高校に通う友達が通りすぎると、悔しさのあまり涙を流していたそうです。

せめて子供だけはまともに学校に行かせてやりたい!

母の思いは募ります。

 

 

今、この話をすると皆さん、一様にびっくりされるのですが、今、「銀河学院」があるところに昔、市民病院があったのです。母が何かの事情で入院している時の事です。母と同室の方が食事の時、お刺身を食べているのを見て、姉が羨ましく思い、「食べたい」って言ったそうです。

父が来ているとはいえ貧しい藤井家にはお刺身を食べさせるお金なんてありません。小さい姉をなだめるのに苦労した、と母が言っていたのを思い出します。

左の写真は私が3歳のころだと思います。親戚からもらったお下がりのブカブカの服です(笑)。右が姉で6歳の頃です。その右が祖母で、後列は左が母で右が伯母です。姉はとても心が広く、頭が良いのが思い出です。4人の子どもに恵まれ、幸せに暮らしています。幸い、近くに嫁いでいますので、時々訪ねるのですが、兄弟っていいな、って思いますね。

 

 

右の写真は私がまだ0歳の頃でしょう。私は祖母にとても可愛がられていたようです。祖母は私が4歳の時、天国に旅立ちましたが、ほんのかすかな記憶の中で祖母は生きています。祖母は岡山県井原市門田町から藤井家にお嫁に来ました。今でも門田の実家とはお付き合いをさせていただいていますが、祖母が残してくれた財産だと思っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

父は昭和29年、藤井家に養子に来ました。神辺町上竹田から来たのですが、当時22歳でした。父は6人兄弟の5番目で次男、と言う事で、中学校を出るとすぐ近所の棟梁のところで大工の修行をし、20歳頃には独立していたようです。性格が几帳面で綺麗好き。最近では少なくなりましたが、入母屋造りを得意としていました。上の写真は私が3歳の頃だと思います。父の実家で撮った写真で、七五三のお祝いに祖父が買ってくれた服を着ているようです。

 

 

母には兄がいて(私からみた伯父)名前が「満(みつる)」と言いました。昭和22年5月7日、帰らぬ人となりました。当時22歳。この伯父が生きていれば父は私のところに来る事もなかったでしょうから、人の運命って分からないものです。

伯父は今、生きていれば87歳になるのでしょうか。私が生まれる前になくなりましたので当然私は伯父を知る術もないのですが、伯父を知る人から伯父の事を聞いた事があります。伯父は大変勉強が良くできて、小学校の代表として対外的な行事にも良く出ていたようです。戦争から帰り、当時としては不治の病に倒れ帰らぬ人となりました。

私は毎晩、休む前に家の仏壇に手を合わせ、祖父、祖母、伯父の戒名と命日を唱えるのが25年来の日課となっていますが、いつも思うのは子どもに先立たれた祖父と祖母の気持ちです。我が子に先立たれた親の無念を思うと辛い気持ちになるのは子どもを持って初めて分かった事でした。「親より一日でいい、長く生きる」事がもしかしたら一番の親孝行ではないのかな、とまで思うようになりました。「伯父の分まで生きる」これが私の使命だと思っています。

上の写真は昔飼っていた犬(=ポチ)と写ったものです。父は犬好きで私は物心ついたころから犬がいつもそばにいました。私も後7年で人生の節目を迎えますのでその時は犬を飼おうと思っていますよ(笑)。

 

 

最近ではペットを飼われる方が多くなりましたね。犬や猫をはじめ、家族の一員となっているような場面にも出会います。以前、テレビで放映されていたのですが、ご主人を亡くされたご婦人がワンちゃんと二人(?)の生活になり、そのワンちゃんもその後、命を落としたのです。その時の悲しみはご主人を亡くされた時以上だった、って聞いた時、複雑な心境になりました。ご主人がいなくなっても探さないけど、ワンちゃんがいなくなったら血眼になって捜す、って事もあります(大汗)。

私の家も父が犬好きで私が小さい頃から犬を飼っていました。写真は私が犬を散歩させているところです。リヤカーが年代を感じさせますよね。彼方に見える山の向こうには今ではJFEスチールができ、病院も出来ています。自然が一杯だった故郷の景色は失われてしまいましたが、これも時の流れなのでしょうね。

ペットを飼うと、命を落とした時の悲しみが襲って来ます。それでも、私は小さい時からそのペットの命と向き合って来れた事に感謝しています。与えられた一瞬一瞬に感謝して全力で生きて行けば良いと思うのです。ペットの素直で何気ないしぐさに癒される事も多いですものね。写真の「ポチ」も天国で元気に散歩していることでしょう。

 

 

夏は人の命を考える季節ですね。広島・長崎には原爆記念日がありますが、福山も大空襲の被害をうけました。そして終戦。お盆でお墓参りをされた方も多いことでしょう。私の家は分家になりますのでまだ家自体の歴史は長くありません。初代である祖父が本家からいくらかの分け地をいただき、家を建てたのだと思います。

私の祖先はその祖父と祖母、そして伯父(母の兄)の三人です。私は結婚してかれこれ26年が過ぎているのですが、思うところあって25年来、基本的に寝る前に仏前で三人の名前と戒名と命日を唱える事が習慣になっています。三人の中で一番先に亡くなったのは伯父ですので、いつも唱えながら思うのは子供に先立たれた祖父と祖母の無念さです。そして自分の命は先祖から代代受け継がれている、と言うことですね。人は一人では生きていけませんものね。

上の写真が祖父です。私は祖父を直接知りませんが、お年寄りで祖父を知る方が、「あんたのお爺さんはとっても頭が良かったんよ」と言われた事があります。祖父の名前は「文市(ぶんいち)」と言います。私の名前は「克文(かつふみ)」と言い、父がつけたのだそうです。「克」はどんな困難も「克服」する・・・と言うことで「克」を選び、「文」は祖父の名前から取ったのだそうです。随分名前負けしている感は否めませんが、先祖から引き継いだ命を大事に・・・って思います。昭和29年8月23日。祖父は天国に旅立ちましたが、まだ60歳の若さでした。

 

 

「親の背を見て子は育つ」って言いますよね。私が子供の頃から記憶にある父はとても厳しくて仕事熱心と言う感じでした。家のすぐ隣に工場がありました。忙しい時は夕食後でも父と母が工場で電気をつけて仕事をしていたのを思い出します。

父の名前は弘(ひろむ)と言います。生まれが神辺町上竹田です。6人兄弟の5番目で二男、と言う事もあり、中学校を出るとすぐに近所の棟梁のところに弟子入りしたようです。昭和29年の暮れに縁あって藤井家に養子として来ました。当時、父は22歳で母は17歳の若さでした。父は仕事ができて几帳面。腕も良かったようで、たくさんの皆様から可愛がっていただきました。

私の会社は今㈱フジヒロですが、その前は藤弘建設有限会社、と言いました。名字からすると、藤井建設、にするのが妥当のようですよね。なんでも福山税務署に届ける時、すでに藤井建設、と言う名前の会社があったので、藤井の「藤」と父の名前の「弘」を取って藤弘建設にしたのだそうです。

父はさすがにもう現場に出る事はありませんが、今でも7時15分にはプリウスに乗って家から工場に出勤しますし、夕方には職人さんを工場で迎えてくれます。仕事の合間には野菜も作ったりして人生を楽しんでいます。上の写真は父が30歳位の頃でしょうか?その父も80歳になりました。まだまだ現役です!

 

 

私の母には二人の兄弟がいました。一人は伯母で名前を「敏江」と言い、もう一人は伯父で名前は「満」 と言いました。

祖父が昭和29年8月、天国に旅立った時、すでに伯母は神辺町下竹田に嫁いでおり、伯父はすでに他界していました。祖父と言う大黒柱を失った藤井家は祖母と母の二人だけとなり、貧困を極め、母は泣く泣く高校を中退せざるを得なくなった事は以前話しました。

伯母は小学校の教員をしており、私が記憶に残る伯母はとても穏やかな性格ながら、教育に対する情熱は大変なものがありました。春が近くなるといつも、「今年は広大付属中学校に~人合格させた」と言うのが伯母の自慢でした。夏休み、伯母の家に泊まりに行くと、伯母の教えでドリルを勉強させられた記憶があります。私が比較的真面目に勉強をするようになったのは中学校2年生になってからで、小学校の頃はお世辞にも真面目に勉強したとは言えません。伯母から見たら「もっと勉強すれば良いのに」って思いだったでしょう。そのトラウマだと自分では思っているのですが、今でも「小学校の先生」と聞くと、どうも頭が上がらず、気後れしてしまうのです。

 

 

 伯母は大正10年生まれで、小学校を出ると三原の師範学校に通ったそうです。家から通うには遠いので三原に住んでいたようで、5年間の師範学校生活を過ごしました。

初めての赴任先は尾道の吉和小学校だったようで私は当然知る由もないのですが、子供を3人育てながらの教員生活は苦労が多かったと思います。

現役を引退してからは、地域のボランティアや周囲教室に熱心でした。

今から10年前。そのボランティアの総会に向かう車の中で体調が急変し、間もなく帰らぬ人となりました。葬儀は家で行われたのですが、ボランティアに熱心だった伯母らしく、見送る方がとても多く、焼香には長い列ができていたのが印象的です。

上の写真は家の前で撮ったもので、伯母は後ろの左に写っています。物腰が柔らかで、温和な伯母はいつも私を我が子のように可愛がってくれました。頭が良くて、字が上手。きっと今頃は天国で私たちを見守ってくれている事でしょう。

 

伯父の事を知る人から聞いたのですが、伯父はとても勉強が良く出来たそうで、小学校を出ると西条農学校に行き、志願して戦争に行ったようです。戦地に行くまでもなく終戦を迎えましたが不治の病に倒れたのです。

「満(みつる)」と言う名前は潮が満ち、後に引くことがあるのであまり縁起の良い名前ではなかった、と祖母(=満の母)が言っていた、と母が話していました。

右の写真は我が家にある唯一の伯父の写真です。いつもは仏壇で私たちを優しく見守ってくれている伯父。

伯父にどんな志があったのか私には知る由もないのですが、その眼差しと向き合っていると凛とした気持ちになります。勉学に長けていた伯父だけに早く命を落とすことはさぞかし無念であったことと思います。

「あとは頼んだ」・・・伯父の目線が語りかけてくれているようです。

「伯父の分まで生きる」・・・これが私の生きて行く上でのテーマになっています。

そして、「せめて一日でも良い。親より長く生きてくれ」。子どもをもって初めて感じた事です。そして、本当の意味での「親孝行」を教えてくれたのも伯父です。

「昨日よりも今日、今日よりも明日」・・・伯父に恥ずかしくない生き方を求めて生きて行きたいと思っています。

 

 

福山市立大津野小学校、福山市立鳳中学校、

広島県葦陽高校を経て一年間の浪人生活を経験

昭和53年4月      広島大学工学部第Ⅳ類入学  ESS入部

昭和57年4月      福山で㈱鈴木工務店入社  設計部に配属される

昭和60年12月     一級建築士合格

設計部より工務部に配属替えとなる

山陽染工本社ビル  アネックス廣川  森近内科 などを経験

昭和62年3月       結婚

平成元年12月      長男(涼介)誕生

平成3年2月        ㈱鈴木工務店退社

平成3年3月        ㈱フジヒロ入社 専務取締役就任

平成4年7月        長女(愛子)誕生

平成4年8月        宅地建物取引主任者 合格

平成13年1月       「ソーラーサーキットの家」と運命の出会い

平成17年4月       ㈱フジヒロ 代表取締役就任

平成24年2月       健康住宅普及協会 入会

「住み心地の良い健康住宅」を求めてさらなる研鑽を!

 

社長のひとりごと

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